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足利義昭の二条城の設立


意外と複雑なんですね。
こんな仕組みになっているとは意外な事でした。

足利義昭は、織田信長の武力を後ろ盾として将軍に就任した後、六条本圀寺を居所としていたが、永禄12年(1569年)、三好三人衆による襲撃を受けた。このときは、京にいた信長家臣団、及び、義昭の側近らの奮戦により防戦に成功するが、この報を受けた信長は、さらに防備の整った城の必要性を認識し、義昭のために築城をすることを決めた。場所は、義輝の二条城のあった地を中心に、それをさらに拡張して約400メートル四方の敷地に、二重の堀や三重の「天主」を備える城郭とした。信長自身が普請総奉行として現地で陣頭指揮を執り、御殿などの建築を統括する大工奉行には、村井貞勝と島田秀満が任じられた。旧管領細川京兆家旧邸からは、文字通り「鳴り物入り」で名石「藤戸石」が搬入された。築城は約70日という短期間で終え、その年の4月に義昭は、ここに本拠を移した。この城の石垣には京都中から集められた墓石や石仏も使われた。周辺からは金箔瓦も発掘されており急ごしらえにしては豪壮な殿舎であったと考えられている。

ところが、義昭と信長の関係は徐々に悪化し、元亀3年(1572年)、義昭の信長追討令に応じた武田信玄が西上を開始し、三方ヶ原の戦いで勝利を収めたのを知ると、翌4年(1573年)3月に、義昭は二条城において信長に対し挙兵する。信長は上京の町屋を焼き払い二条城を包囲するが、城自体に対しては攻撃を控え、正親町天皇の勅命を得て、和議が成立する。しかし、7月に再び義昭は宇治の填島城において挙兵する(填島城の戦い)。このとき、二条城には、公家の日野輝資と高倉永相、義昭の側近の伊勢貞興と三淵藤英が守備のため置かれたが、信長軍に包囲されると一戦も交えず降伏した。この際に、御殿などは兵士たちによって掠奪され、破壊されたと伝えられる。この直後、槙島城の義昭も降伏し、畿内から追放され、室町幕府は滅ぶことになる。二条城に残った天主や門は、天正4年(1576年)に解体され、築城中の安土城へ運ばれ、建築資材として再利用された。当時は「武家御所」「武家御城」などと呼ばれていた(この城が二条にあったとするのは「信長公記」永禄12年2月2日条が初出か)。

昭和50年(1975年)から53年まで、京都市営地下鉄烏丸線建設に先立つ烏丸通の発掘調査が行われ、この信長の二条城の石垣および2重の堀の跡が確認された。この際発掘された石垣にあった石仏が京都文化博物館や西京区の洛西竹林公園内に保存されている。また、石垣の一部が京都御苑椹木門内及び現二条城内に復元されている。 現在は、平安女学院の敷地の一角に「旧二條城跡」と彫られた石碑が建っている。

引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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2008年02月08日 19:32に投稿されたエントリーのページです。

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